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られるとは?/ キャッシュワン

[ 84] 【ことばをめぐる】(981112)よう(助動詞),られる(助動詞),ら抜きことば
[引用サイト]  http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k981112.htm

何が「ら抜きことば」か、〈知識人〉といわれる人でも案外分かってないらしいことについては、以前書きました。「ら抜き」ではない「振り返れる」という語を、「ら抜きだ」と解釈していたという話でした。
「見れる」「着れる」は間違いで「見られる」「着られる」がいいのだ、などとよく批判されます。でも、前者が間違いだとして、それがなぜなのか分からないまま、言われたとおりの語形を個別に覚えるしかない人も多いと思います。使い手が直観的に適否を判断できないような、そういう語法は、どうしても滅びてゆく運命にあります。
中学校の国語の教科書も、「活用形がどうの……」と説明していて、それは正しいのだけど、ちょっと子どもの記憶には残りにくい。明快さに欠けます。
教科書によっては言及していない本もありました。それは論外としても、こういう説明だけで「ら抜きことば」をやめる生徒は多くないでしょう。まして、学校を卒業して「何段活用」というのを忘れてしまった人には、なおさらワケが分からないかもしれません。
文法的に、考えに考えてやっと分かるようでは困るわけです。「ら抜きことば」の勢力拡大を阻もうとする人は、「何段活用のときは、ああで、こうで」と長ったらしく講釈するのはやめたほうがいいですね。それよりも、もっと簡潔に、次のようなスローガン(?)を広めたらどうでしょう。いわく、
ラ抜きかどうか心配になったら、その言い方の最後の「る」を取り除いて命令形としても使えるかを試せばいい。「走れる」の場合なら、「る」を取り去った「走れ」はまったく当たり前の命令だ。ラ抜きことばでないから使っていい。「走る」は五段動詞なのだ。これに対して、「見れる」の場合だと、「る」を取り去って「見れ」にすると命令形としてはおかしい。だから「見れる」はラ抜きことばによる言い方で、使わない方がいい。おかしなときには「見られる」のように「ら」を入れればよい。「見る」は一段動詞なのだ。
とのことです。語の活用の種類を特定するために、井上氏と僕とで異なる試薬を使っているだけなので、どちらの判別法でもOKだと思います。でも、僕の学生の中には
と言う人もいました。井上氏もそのような方言をもつ人には役立たないと認めています。その点、僕の方法のほうがちょっといいぞ、とひそかに誇っています。
「一つ告白しますと、この方法にもきわめて小さな「穴」があります。それは、「する」という動詞にだけは使えないということです。「する」に「よう」がつくと「しよう」になりますが、「られる」をつければ「しられる」です。今日「しられる」の語形を使うのは、関東など一部の地域に限られます。全国的な語法ではありません。とはいえ、「する」の場合、共通語では可能形は「できる」が使われますから(例、「勉強する」は「勉強できる」)、「られる」か「れる」かという問題はもともと回避されているわけです。」

 

[ 85] られる
[引用サイト]  http://homepage1.nifty.com/kmiya/rare.html

日本語の「られる」は受動だけでなく自発や可能などいろいろな意味を表すことができます。英語の受動態は項の増減からみると目的語を主語に昇格させて項を減ずる働きをしていますが日本語の「られる」は項を減ずる場合にも使われますが、項をさらに付け加えるような場合にも援用されます。どうも日本語の「られる」は英語のbe + 過去分詞形で表される受動態とは1対1に対応していないことがわかります。このような特徴を持った「られる」を具体的に見てみましょう。
(1b)は(1a)の受動態です。(1a)の主語である「ケン」と目的語である「リサ」を入れ替えたようなものです。この場合、(1a)で主語であった「ケン」は斜格を帯びていて省略が可能です。(1c)のように「ケンに」を省略しても文法的な文ができます。このような「られる」は英語の受動態とほぼ並行的です。ほぼと条件をつけているのは日本語では(1a)を受動態にする場合は(1b)のように主語に昇格した名詞句は一般的に「は」格で表すのが一般的であるからです。英語ではこのような区別を形態的には行いませんからまったく英語と日本語とが並行的であるということはいえません。つぎに項を増やす次のような「られる」を考えてみましょう。
(2a)は名詞句を1つとる1項述語です。英語の場合は1項述語で表現されている文は自動詞ですから受動態にはすることができません。しかし日本語では別の項を追加して(2b)のように表現することができます。間接受動態とか被害受身といわれるものです。このような「られる」は「に」格で表されている名詞句を「によって」に置き換えると非文が生じてしまいます。(2c)が非文なのは(2b)の「に」格で表されていた名詞句が「によって」に置き換えられてしまったためです。さらに純然たる間接受動態と呼ばれる次のような例を考えて見ましょう。
(3b)は「リサ」と「ケンの頭」の2つの項からなる能動態の文です。この「ケンの頭」の所有格の「ケン」を主語にもってきたのが(3b)の受動態です。「ケン」と「ケンの頭」は全体対部分の関係になっています。一方、(3d)は「ケン」と「ケンの本」との関係で全体対部分の関係にはなっていません。「ケンの本」は単にケンの所有物であるだけです。これらいずれも「られる」で表されているのですが、項の減少は生じていません。このように日本語の「られる」はいろいろなものを表すことが可能です。英語のbe + 過去分詞と完全に並行的ではありません。とは言ってもそのような表現方法が英語や他の言語にないというわけではありません。必ず(2b)や(3b)の表現形式はそんざいするのです。単に英語でそのような表現をbe + 過去分詞で表現しないというだけの話なのです。他の言語でも同じ事がいえます。

 

[ 86] 自分の経験の枠組みは自分で変えられるか? - アンカテ(Uncategorizable Blog)
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/essa/20080131/p1

影響力のある人ってのは、つまり権威ってことなんだし、自分で吟味しない人は常に一定の割合でいて(そうでなければ、世の中に権威という存在はありえないわけだが、実際、存在している)その人たちに影響を与える。
つまり「プログラミング言語の仕様というものはユーザの総意によって変えることが可能である」という暗黙の前提が無いとしたらどうなのだろうということだ。
つまり「Rubyに問題があればそこを変えればいいんだし、それができなかったら自分が使う言語を変えればいい」という発想の人がRuby使いには多いということだ。
そして、このメンタリティは、Rubyという言語の特性というよりは「1つの技術にロックインされてない人」だから持ち得るもので、もしRubyがもっと普及したら、必ずしもそうとは言えなくなるかもと言っている。
プログラマにとって、プログラミング言語というものは「経験の枠組み」である。そこにあるルールの多くは、少なくとも最初のうちは、意味不明で「あれこれ考えずにとにかく言われた通りにすればいいんだ」と叩きこまれるものである。で、その既存のルールを早く覚えて深く理解すれば、それだけで自分の生活の quality of life は上がっていく。
だから、プログラミング言語は、ある段階までは、自分の外部にあって変えることができない「環境」であり、プログラマは、その不変の「環境」の中で、その制約に従って生きるしかない存在である。
ところが、オープンソースとかLLというものを覚えるうちに、それが必ずしもそうとは言えないことに気がつく。
つまり、自分が住んでいる「環境」について堂々と文句を言って、時にそれを変えてしまう人たちがいることに気がつく。
少なくとも、「環境」がなぜそうなっていてそこにどういう意味があるのかを、自分が納得するまで追及することは無駄ではないし、そんなに叩かれることでもないし、むしろ喜ばれることもあるし、時にはヒーローになってしまうことだということに気がつく。
言語仕様だけではなくて、ライブラリやフレームワーク等の関連するソフトウエアや、ドキュメントやコミュニティのあり方や開発の進め方について、つまり、プログラマとしての自分の経験を形作る「環境」全体について、不満があれば変えることができるということを知る。
ところが、世の中には「自分の経験の枠組みは不変のもので自分には手が届かないものだ」という信念の人もいて、「変えられる」派と「変えられない」派は、時に深刻な対立を引き起こす。
「変えられない」と考える人は、言語の仕様に理解できない所や納得できない所があったら「悪いのは環境ではなくて自分である。変えるべきなのは環境でなくて自分である」と考え、環境の是非を考える前にそこに適応しようとする。
人間には能力の限界があり、全てを手に入れることは困難です。 だから人々は標準を求めます。 開発者の場合だと、どの言語が良いか迷いに迷って、一つの言語を苦労して習得するワケです。 まつもとさんのように技術力のある方はこの苦労は分からないかも知れませんね。
このコメントをした人には、「人間には環境は変えられない」という信念があるのだと思う。言語開発者はその環境を変えるどころか創造してしまう人なのだから、自分たちとは同列でない「神」であり、「神」が人間の世界に言及する時は、それなりの作法があるだろうと言っているのではないだろうか。
だから、この対立の構造の一部には、プログラミングという領域の外に根ざしている部分があると思う。
というか、もともとネットというものは、「自分の経験の枠組みは自分で変えられる」という信念の人が、自分の信念に合う世界として発見し、その信念に沿って構築した新大陸だ。
ネットやオープンソースやLLが「自分の経験の枠組みは自分で変えられる」という経験を与えたからユーザがそういう可能性に目覚めた、というのは話が逆なのだろう。
コンピュータやネットを知る前から「自分の経験の枠組みは自分で変えられる、そうあるべきだ」という信念を持っている人が一定数いて、そういう人が(ネット以外の)リアルワールドが自分の信念と一致してないことを知り、「どうも変だ、何かがおかしい」と考えて彷徨ううちに、自然と引き寄せられて集ってきて、自分たちの信念に合うように世界を再構築しているのではないかと思う。
PHPのコミュニティは、そういうメンタリティとは逆の人が集っていて「不変の確定した枠組みを作る」ということにフォーカスを当てている。だから、マニュアルや教育システムが整備されていて、スキルとして明解で人月として計算しやすい「PHPプログラマ」の集団を送り出すことができたのではないだろうか。
そう考えると、PHPは「人間には環境は変えられない」という信念にマッチしている分だけ、旧世界には受けがいいけどネットという新大陸では叩かれやすい、ということになる。
「自分の経験の枠組みは自分で変えられる」とか「自分の経験する物事は自分と環境の相互作用で成立している」とか「自分を取り巻く環境を構成する要素には変えられる部分と変えられない部分があるが、変えられる部分の方が本質的で重要である」とか。
そういう考え方を巡る対立って、この問題に限らずあっちこっちにあるような気がする。「変えられる派」が「変えようよ」と言うと、「変えられない派」は「変えることができる人は例外であってそういう人を規準にしたりするな自分たちと同列に置くな」と言って怒る、そういうパターン。
あんまりちゃんとフォローしてないんではずしてるかもしれないけど、「モテ/非モテ」とか「ポジティブ教」とか。
思わず納得してひざを打ちました。> つまり、プログラマとしての自分の経験を形作る「環境」全体に> ついて、不満があれば変えることができるということを知る。これを「環境」→ 世の中のルール と置き換えてさらに拡大すると、たとえば民主主義という制度だって、「こんなルール間違ってるから変えよう」という意思を持つ人たちの前向きな精神で成り立っていたといたのではないかなとも思いました。Ruby、というか一般的な OSS コミュニティが民主的であるとはそういう意味なんですよね。社会の枠組みも、法律も、言語仕様も、天下りで与えられることに慣れきっている日本人は意外に多いのではないでしょうか。この文を読んでそうなりがちな自分に気づかされました。ありがとうございます。
そうですね。ルネッサンス→市民革命→アメリカ建国→西海岸のカウンターカルチャー→インターネット→オープンソース という一連の流れには、自分の身近な問題について「変えたっていいんだ」と気がついた普通の人がたくさんいたのだと思います。そういうものを「別の世界の関係ないこと」と思ったら、誰か偉い人によって上から与えられるものになってしまいますよね。歴史の中の人もネットの中の人も自分たちと同じ普通の人なんだけど、そういう普通の人たちが凄いことをした/しているという見方も必要だと思います。
私は、単に「影響力のある人」がそういうことを言うと、よく知らないくせに「PHPを使ってる奴はダメなやつ」と短絡的判断をして、実際に言っちゃう人(レッテル張りする人)が出てくるので、迷惑に思っている人も一定数いると思います。

 

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